【私の宝石物語】音楽評論家/作詞家 湯川れい子さん《後編》

 各界で活躍する有名人の方々が、宝石への想いを紡ぎ出す「私の宝石物語」。
前号に続いて今号も、ポピュラー音楽の評論家としては日本の草分けである、湯川れい子さんが登場。
今回は、湯川さんの人生を変えた「運命のダイヤモンド」のお話です。

湯川れい子さん

 音楽評論家になって56年。作詞家生活は51年を数える湯川さん。そのキャリアに寄り添ってきたのは、敬愛するエルヴィス・プレスリーにまつわるジュエリーなど、音楽にちなんだものでしたが、昨年「傘寿」を迎えた人生の裏には、「人生最大の出会い」であり「運命さえも変えた」という、ダイヤモンドの存在があります。

 湯川さんが初めてダイヤモンドを手にしたのは、今を遡ること50数年前。まだパスポートが必要だった沖縄に、テレビ番組の仕事で行った際、自分で購入したのが、生まれて初めてのダイヤの指輪でした。

「0.5キャラットくらいの可愛らしいダイヤモンドの指輪を、自分へのご褒美のつもりで買ったんですけど、誰かに『ダイヤっていうのは自分で買うものじゃく、愛する人にもらうものなんだ』って言われて(笑)、『あ、そうなの?』って言ったのが想い出にあります。」

 そんな教え?を守り、結婚するまで自分でダイヤを買うことはなかった湯川さん。ご主人と結婚した際に2キャラットのダイヤの指輪を贈られ、「愛する人からもらう」夢は叶ったものの、ハワイで買ってもらったこのダイヤが、のちに夫婦の運命を変える、大きなきっかけとなるのです。

 それはある日、ご主人のもとに持ち込まれた、一つの箱から始まりました。一見、カステラの箱のような小さな箱。実はダイヤモンドが放つ光の屈折を肉眼で見ることが出来るもので、この器具で湯川さんのダイヤを見てみると、ブリリアントカットはどこへやら。美しい光の屈折を見ることは出来ず、それまでダイヤモンドには全く興味がなかったというご主人ですが、すっかりダイヤに目覚めて、完璧な輝きを追求する日々が始まったのです。

「それまでの仕事は一切辞め、腕利きのカッターと組んで、2年くらい試行錯誤したでしょうか。ようやく理想のカットにたどり着いたのですが、それを知った高名な仏教家の方が訪ねてみえて。そこから私の人生に影響を与えたダイヤモンドの、長い長い物語が始まりました。」

 仏像の彫刻家でもある師によると、ダイヤモンドから浮かび上がる光の輪が、お釈迦様が首から下げたり、手に持ったりしている「輪宝」にそっくりだそうで、加えてブリリアントカットの58面体のうち、クラウン側が33面、パビリオン側が25面というこの数字も、お釈迦様が人を救うために変化(へんげ)するお姿の数、「二十五菩薩、三十三観音」と符合。そのことに感動した師は、比叡山から依頼された仏像の眉間に、同じカットを施した『ダイヤモンド』を入れたいと希望されたのだとか。

「結局、莫大な費用がかかるダイヤではなく、ジルコニアにカットを施したのですが、そのジルコニアを仏像の眉間に納めて一夜明けると、不思議な変化が現れました。もともと3本の線が彫りこまれていた仏様の掌に、もう1本新しい線が刻まれ、4本になっていたんです。これには比叡山まで見に行った私たちも衝撃を受け、涙が止まりませんでした。」

肌身離さず着けている「運命」のダイヤモンド

肌身離さず着けている「運命」のダイヤモンド

 そんなダイヤモンドの噂は海を越え、アメリカの大女優のもとにも届きました。「アパートの鍵貸します」や「愛と追憶の日々」などの映画で知られるシャーリー・マクレーンさんからも、「ぜひ見たい!」とオファーがあり、カリフォルニアのご自宅へ。ご主人のダイヤモンドを見たシャーリーさんは、「これこそが『賢者の石』」と称賛。ダイヤモンドを通しての交流が始まったといいます。もちろん湯川さん自身も肌身離さず身に着け、様々な局面で、ダイヤモンドからチカラをもらってきました。

 「C型肝炎やガンになったり、離婚したり。人生ドカンスカン色んなことが起きて、紆余曲折もあったんですけれど、その度に自分のダイヤモンドと『ダイヤ問答』をしたんです(笑)。そうすると嫌でもそこからパワーをもらえるっていうか、信じる者は救われるっていうか。ガンさえもそれによって消えていくような。そんなパワーをダイヤモンドがくれたんでしょうね。肉体的なチカラもくれるので、それが本当に良かったですね。」

 そのチカラはしばし強いエネルギーを放ち、湯川さんを苦しめたこともあったそうです。

「『苦しい』と自覚して石を見つめると、せっかくの石が汚れて濁って見えるのです。そんなときは丁寧に洗って再び指にはめ、自分の心の内を覗き見るようにしながら、『ねぇ、あなたの本当の望みは何なの?』『あなたが心からの幸せを感じるとしたら、それはどうなることなの?』とダイヤモンドに訊ねてみる習慣が出来ました。そうすると自分の中の奥の奥にある、自分が本当に選びたい道が、全部出てきちゃうんですね。それが離婚した今も身に着けている理由です。」

 いわばダイヤは「道しるべ」。湯川さんの人生になくてはならない、大事な宝石なのです。
ところで湯川さん。初めて自分で買ったダイヤモンドのその後は…?

「今から20年程前に形見分けしました。『子分会』といって、私のところで働いてくれていた代々の『子分』たちが20人くらいいるんですけれど、ちょうどその頃、体調が悪かったこともあって、私もそんなに生きられないかな…と思って、持っていた宝石を形見分けしたんです。その時の一つになりました。形見分けをしてから、ずいぶん生きてますけど(笑)。」

 「傘寿」を迎えた今なお、音楽評論の第一人者として、元気に活躍を続けられるのも、ダイヤモンドの導き。美しい輝きのお陰なのかもしれません。

湯川れい子さん プロフィール

東京生まれ。1960年、ジャズ評論家としてデビュー。早くからエルヴィス・プレスリーやビートルズを日本に広めるなど、独自の視点によるポップスの評論・解説を手がけ、世に国内外の音楽シーンを紹介し続け、現在に至る。作詞家としても活躍し、「ランナウェイ」「センチメンタル・ジャーニー」「六本木心中」「恋におちて」など、数々の作品で大ヒットを記録。また訳詞の依頼も多く、ディズニー映画「美女と野獣」や、キャロル・キングの半生を描いたミュージカル「ビューティフル」などで日本語詞を手がけている。

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